春の香りがする時期ですね。
花が咲き乱れ、鳥たちのさえずりが聞こえ、
日のぬくもりを感じ、花粉に苦しめられる…。
みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
今回のテーマは羽根井・花田の歴史をご紹介いたします。
羽根井・花田といえば、何か、と言われますと、
真っ先に出てくるのは「羽田八幡宮」ではないでしょうか。
毎年、大盛り上がりのお祭りの中心地である、こちらの神社ですが、
実は、この神社は、羽根井・花田の歴史を語るうえで、
欠かせない存在となっているのです。
というのも、羽根井・花田は学問が盛んであったことは、
みなさんご存じでしょうか。
かくいう私も、調べていく中で知った事実であり、
また、知れば知るほど誇らしくなってきました。
実は、羽根井・花田の学問界隈を発展させていった中心にいた人物がいたのです。
それが「羽田野敬雄(はだのたかお)」です。
それでは、この羽田野敬雄は、どういう人物で、
また何をしてきたのか、そして、どのように、
羽根井・花田の歴史を築き上げたのかをご紹介させていただきます。
羽田野敬雄の生い立ち
1798年(江戸時代)、羽田野敬雄(旧姓:山本)は、
現在の豊川市御津町西方で農家の家庭に生まれました。
彼は、内向的な性格で、読書好きな父の影響でよく本を読んでおりました。
そんな彼が21歳のときに、羽田村(現在の羽根井・花田周辺)の神主である、
羽田野上総敬道の養子となりました。
そして、敬雄はのちに羽田八幡宮の神主となります。
彼は国学を普及しており、また学者でした。
また、地域にとても貢献した人物でした。
そこで彼がした貢献のうち3つをご紹介いたします。
①豊橋図書館の前身(羽田八幡宮文庫)を創設
1848年、羽田野敬雄たちを中心に、羽田八幡宮文庫を設立しました。
当時江戸時代の日本において、一番はじめに「貸出」を行った文庫となりました。
また、近代おきた図書館運動のさきがけとなったようです。
なんと10,000巻という本を納めておりました。
この文庫を作った目的は、端的に言うと、
「貧困で本が読めない人にも、学問ができるために」
というものでした。
この文庫は現在の「豊橋図書館」となっており、
豊橋中央図書館、豊橋市向山図書館、豊橋市大清水図書館の3館と、
市内にある市民館が、そのあとを継いでいます。
豊橋の図書館の流れは、江戸の時点ではパイオニアだったのですね。
②羽根井小・花田小の前身(松蔭学舎、誦習学舎)を創設
羽田野敬雄は、2つの寺子屋をつくりました。
一つは読書がメインの「松蔭学舎」、もう一つは講義がメインの「誦習学舎」。
この誦習学舎の精神である「誦習」を受け継いで立てられた学校が「花田小学校」です。
また、そこから派生して出来た学校が「羽根井小学校」です。
「誦習」とは同じことを繰り返し繰り返し学習するという意味です。
③国学の普及をした
国学というと、なんだそれは、と言いたくなるくらい、
現代ではあまり知られていない学問だと思われます。
簡単に言うと、古事記、日本書紀などの、
天皇をベースとする日本のアイデンティティを再び目覚めさせるのを目的とした
学問になります。(ザックリですが)
江戸時代の中期に盛んになった学問で、
それまでの日本は神道と仏教が合わさった宗教であったり、
江戸時代は儒教が流行ったりするなど、
どれも国外のものを取り入れた、いわば混ざりものの宗教でした。
しかし、国学においては、純粋な日本人を追求しようというもので、
「日本人らしさ」を研究して、また広めていました。
のちの時代、この国学が広く普及され、
日本全体の教育の中で古事記を実話として教えられるようになりました。
羽田野敬雄は、この国学を三河地方に普及させた、
いわば国学の伝道師のような働きをしていた人でした。
まとめ
羽田野敬雄は、現代の学校、図書館、教育に大きな影響を与えた人でした。
羽根井・花田の小学校の基礎を作り、現代日本の図書館の先駆けとなりました。
このように、羽田村(現在の羽根井・花田)での羽田野敬雄の活動は、
この地域のみならず、日本全体の学問・教育にも大きな影響を与える人となりました。
このような視点で、羽根井・花田の歴史を見てみると、
この町を学問の町といっても過言ではないと思います。
この精神のバトンをもらい、私たちも学問や教育にいそしんでいきたいと思います。